目的
卒後臨床研修の充実を図ることを通して、医師の養成と、地域医療の発展に寄与することを目的としています。この目的のため、つぎの6つの事業を行っています。
- 指導医の確保と養成に関する事業
- 研修医の確保と育成に関する事業
- 地域医療に従事する医師の支援に関する事業
- 医学・医療の発展を支援するための事業
- 地域医療の充足に関する事業
- その他、この法人の目的を達成するために必要な事業
設立の経緯
東北大学の卒後教育を語る際には、東北大学三者協議会(のちに東北大学艮陵協議会、現NPO法人の前身)に触れない訳には行かないほど三者協議会というのは重要な仕組みでした。ここで、インターン制度の歴史と、その崩壊について少し長くなりますが昭和45,46年の2年間東北大学教室員会の委員長であった柴生田豊先生の言葉を借りて説明します。
「インターン制度も国家試験も、私達の二・三年上級の学年(注:1946年)から始まったと思うが、この制度は他の先進諸国では以前から実施されていて、充分な効果を挙げていると私は考えていた。日本もそうだったから、顧みて他を言うことはできぬが、第一次大戦前後のアメリカ医学、特に臨床医学の水準はお寒い限りであったようだ。それが、インターン・レジデント制の充分な予算を伴う整備、各州及び連邦による医師資格試験、教育病院認定の強化、専門医試験とその合格者の優遇(ボードマン・システム)、水準に達しない医学校の断然たる閉鎖など、次々に如何にもアメリカ人らしく、始めは緩やかにそして、次第にその綱を引き締めてゆくという一貫した政策を、米国医師会主導の下に継続した結果、世界でベストの医師は英国人医師といわれた英国をはじめ、ドイツ、フランスなどの医学界を大きく凌駕するに至った。いろいろの観点もあろうが、日本の医学教育のなかで、あれ程隆盛を誇ったドイツ語が、今や全くといってよい程顧みられなくなった変化は誰の目にも明らかであろう。勿論、政治的、経済的背景の差も大きかったとは思われるが。インターン制度の崩壊は一に政府がインターン生に対する経済的保障を渋ったことにある。司法試験合格者に対しては、その二年の修練期間を通じ公務員として待遇するにも拘わらず、他学部に比し、在学期間が二年多い医学部卒業生を、更に一年強制的に無給で拘束するという発想は近代国家の政府とはいえない精神構造である。勿論、数百名の司法研修生に比し、二五倍以上の人数のインターン生を抱える訳であるから、それ相当の予算が要る。あの頃荒っぽい試算をしてみたことがあるが、三〇億か多くても四〇億の経費を財政当局が認めれば済んだことであり、卒業直後の医師の練度を上げることによって、日本社会の受ける恩恵の大きさを思えば、費用対効果の計算をする迄もない話であった。」
三者協議会はインターン闘争のさなか非入局を宣言した学生の中から発想され、昭和43年に故石川誠先生(昭和43年教室員会委員長)らが中心になり設立されました。この「三者」とは、学生会、研修病院会、大学(教授会・教室員会)の3つを表しており、その話し合いにより初期研修を行なっていこうというものです。その当時の東北大学医学部長の槙哲夫教授は、昭和44年の第1回三者協議会準備会で以下のように述べています。
「現行の法律とは無関係に、卒後教育はいかにあるべきかの問題につき、現場で直接診療に従事する市中病院の先生方に意見を聞き、東北大学としての望ましい研修形態を確立していきたい。」
また、研修の主役となった卒後すぐの医師たちの理念は多くの有力な病院長と語りあうなかで、「非入局・病院公開性・教育病院構想」の方針を打ち出し、その意図するところは「入局せずに市中病院(初めて使われた用語)に出て、病院を大学から解放し自らの発展を模索できるようにする。同時に研修に適した教育病院となるよう、病院とともに努める」というものでした。
この理念は、大学病院が数多くの研修医を抱えていた他大学とは異なり、市中病院との相互チェックや連携などから両者間の緊張感と風通しの良さにつながり、その一方で東北地方の病院への人材確保と初期研修カリキュラムの導入など優れた実地臨床研修へと結実して行きました。同時に東北地方の中核病院が大いに発展しました。これはまさに現行の卒後臨床研修の理念に通じるところがあり、東北大学は約40年前から時代の先取りをしていた訳です。
その一方で、昭和50年代になると、市中病院における指導医不足、中核病院の専門医育成などの問題が深刻化しました。三者協議会は卒後初期研修に対するシステムとしては十分に機能していましたが、各県一医大新設などによる関連病院の取り合いや、若手医師の都市集中化に伴う地方病院の慢性的医師不足などがあり、人事交流や教授会との協議を盛んにすることを目的として昭和61年に東北大学医学部関連病院協議会が発足しました。
平成2年になって、従来の関連病院と大学とが大学各医局と関連病院各科との関係であった「点と点」の関係から、「大学と病院」の関係に発展させること、また、関連病院協議会を「教育、研究、医療の全ての分野での協力体制の確立と将来構想の具体化に対処できる機能的な組織体」に育てることが模索されるようになりました。現在もNPO法人の機関紙である「けやき」は平成3年に関連病院協議会会報として発刊されています。
このようななかで医学・医療の専門化への動きと地域医療の充実をどう共存させるか、地域行政、医療圏の問題も議論に取り上げられ、関連病院サテライト構想や基幹病院構想も真剣に討議されました。その後、関連病院協議会と三者協議会はひとつになって、平成5年に三者協議会をさらに発展させ艮陵協議会(理事長:平則夫先生、教室員会委員長:里見進先生、現東北大学病院長)という名称に変更となり、大学病院と関連病院が協力して医師を育てていく東北大学独自の伝統が継承されました。
平成16年に卒後初期臨床研修が義務化されました。この制度改革は、卒後すぐには入局せず、スーパーローテート方式で多くの経験をつみ、全人的医療を実施できる医師を育てることを目的としており、東北大学や名古屋大学などが行っていたシステムをモデルとしているとも言われています。全国的に大きな制度改革であったために影響は大きく、研修医の集中する病院とマッチングに満たない病院が色分けされ、大学の入局者がいなくなったために、大学自体も疲弊したり、指導医のひきあげが起きたりしました。さらに、医療事故に対する刑事訴追が数件発生したことをきっかけに、過重な労働・責任に耐えかねた医師が医療現場を立ち去っていき、地域医療そのものが崩壊しかねない事態となっていいます。このような時代にこそ、東北大学と、関連する病院・研修医、指導医が横の連携を強め、理想を掲げ、すぐれたシステムを構築することが求められます。かつて三者協議会がそうしたように、全国のモデルとなっていくべく、東北大学艮陵協議会を特定非営利活動(NPO)法人化してその活動をより強固なものとすることとなりました。
NPO法人化することによって、これまでの活動としての加盟病院間の連携、艮陵協議会加盟病院の説明会開催、関連病院ガイド・ホームページ・機関紙『けやき』による情報の発信などをさらに押し広げていくことが可能になります。法人として財政基盤をより透明で強固なものとし、定款に掲げる、①指導医の確保と養成に関する事業、②研修医の確保と育成に関する事業、③地域医療に従事する医師の支援に関する事業、④医学・医療の発展を支援するための事業、⑤地域医療の充足に関する事業を積極的に行うことで、卒後臨床研修の充実を図ることを通して、医師の養成と、地域医療の発展に寄与することを目的としています。
参考文献:
- 佐々木巌. 東北大学医学部教室員会50周年記念誌. 笹氣出版. 仙台市.
- けやき(東北大学医学部関連病院協議会会報). 創刊号
- けやき(東北大学艮陵協議会会報).第4号
(文責:東北大学肝胆膵外科 江川新一)